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バドミントンの歴史について |
●語の由来 |
<バドミントン>の名称は、このゲームの原型がイングランド南西部のグロスターシャー(州)バドミントンにあるボーフォート(Beafort)公爵のカントリーシート(上流階級のいなかの本邸)で生まれたことに由来している。 1893年にバドンミントン協会が設立され、統一ルールを制定し<アソシエーション・バドミントン>がはじまった。今日、バドミントンはすべてこのアソシエーション・バドミントンをさし、<Badminton>の各国語訳が別の呼び方をしている。たとえば、中国語の<羽毛球>、日本語の<羽球>、インドネシア語の<ブルータンキス>などがそれである。 |
●原 型 |
大きな弾性の小球や風船のような軽い球を長い距離安定した軌道で飛ばすことはかなりむずかしい。そこで、飛行体に羽をつけて一定したフライトを得るのであるが、このような玩具は古今東西さまざまな地域の風俗のなかにみることができる。例えば日本の「羽根撞き」や韓国の「チャギイ」などである。 また中世ヨ-ロッパにおいても 木の実やコルクに鳥の羽根を付け、木製のバットで打ち合う遊びがあった。15,16世紀になるとバットは木枠に羊皮や羊腸のストリングを張った「バトルドアー」に変わり、3人〜5人 で打ち合う「バトルドアー・アンド・シャトルコック」という遊びへと変わっていった。 1787年に刊行された森島中良氏の「紅毛雑話」には「バトルドアー・アンド・シャトルコック」についてと思われる次のような記述がある。 「黒坊の慰みなり。西洋館にて閑暇なる時は 追羽根をつきて遊ぶなり。」ところで、バドミントンとは元来インドにおいて古くから行われており、この競技は インドの地名をとり「プーナ」と呼ばれていた。19世紀半ば、これをインド駐在のイギリス人が本国に伝えたが、1873年にイギリスのグロスターシャーに近いボーフォート公領のバドミントン村 で「プーナ」が行われてからは、「バドミントン」という名で広く普及した。 このころ「プーナ」発祥のインドに「バドミントン」が逆輸入され、新聞に「バドミントンという のゲームが日曜日の礼拝の公序良俗を犯している。」という記事が載るほどであった。 ただし当時バドミントンと呼ばれたゲームはようやくサーバーのサイドがラリーに勝ったときに 得点するという方法にはなったが、サービスは相手サービスコートにシャトルを手で投げ入れたり、コートの一方のエンドにそれぞれ4人ないし3人が入って対戦するものが主で、規則もそのためのものであり、 ダブルスなどはまれにしか行われなかった。 やがてイギリスでは、インドへの交通の要所となるいくつかの港町の士官クラブ帰りの陸軍士官を 中心にしたバドミントンクラブがつくられていくようになる |
●アソシエーション・バドミントン |
このように各地にできたバドミントンクラブは、そのクラブに固有な規則しかもっておらず、ゲームのやり方が違ったばかりでなく、コートの大きさもちがっておりクラブ間のゲームでのトラブルはさけがたいものであった。 そこで、1893年にハンプシャーのサウスシーでクラブ代表が会合し、統一ルールを作成することに賛成した14のクラブによって<バドミントン協会 The Badminton Association>が結成された。 ここから今日<バドミントン>と呼ばれるいわゆる<アソシエーション・バドミントン>の歴史がはじまることになる。 しかし、なかなか協会に加盟しないクラブも多く、バドミントンが近代的なゲームとして発展するためには、さらにいくつかの条件を整理していく必要があった。ゲームは屋内で行われることが理想ではあったが、そのようなホールはどこにでもあるものではなく、屋外ではその場の風の影響を考慮して臨機応援にいくつかのルールをつくる必要があったし、屋内では狭いホールに対するサブルールも必要であった。 とくにヴィクトリア時代の建築様式は、ホールの中央両側の壁にドアーがあり、この開閉がゲームのじゃまにならないように コートはその中央にくびれをもつ砂時計型となっており、この不自然な形状がしばらくはコートの標準型とされていた。 砂時計型コートの起源をめぐっては、つぎの3つの説がある。 ★ バドミントンハウス(ボーフォート公爵の館)の影響による。 ★ インドでの建物の影響による。 ★ 当時の建物のホールは多かれ少なかれその中央に内開きのドアーをもっていたことの影響による。 さらにバドミントンが少なからぬ影響を与えた<スファイリスティク>のコート形状が砂時計型であったことからも砂時計型のコートがこの種のゲームの原型的なイメージであったとも推測される。 コートはネットのところでベースラインより4フィート(1.22m)狭くなり、サイドラインはショートサービスラインのところで内側にくびれていたのである。 この砂時計型コートは、 1901年の第3回全英選手権まで用いられていたが、同年4月、サウスシークラブの将校シェークスピアの提案を受けて協議され、永久に廃止された。 バドミントンが発展の第1歩をしるしたのは、1898年にギルフォードで開催された第1回のオープントーナメントである。この協議会には、混合ダブルス12組、女子ダブルス6組、男子ダブルス7組が参加し、成功裡に終わったという。これが翌年の<全英バドミントン選手権>の開催につながったのである。 第1回全英選手権は、1899年4月4日、ロンドンのバッキンガムゲイトにあるロンドン・スコティシュドリルホールで 終日をかけて行われたが、イベントはダブルスの3種目にかぎられていた。 非社交的で傲慢なプレイとしてクラブのなかでは敬遠されたシングルスが<キング・オブ・キングス>の意味を与えられて競技種目として公式戦に登場するのは 1900年の第2回全英選手権からである。また、ミックスダブルスには、女性プレイヤーに<hit and scream>つまり<打ったらキャーという>奇妙なルールがあった。このルールが、いつ、どのようにしてできたのかについてはたしかな記録がない。 このように、不合理で奇妙なルールのなかで、当時の試合時間の大半はルールの不備と解釈の相違によって生じるトラブルを解決するために用いられている。アソシエーション・バドミントンが今日のようなスタイルに落着いてくるのは、エドワード時代の1910年代にはいってからである。 なお、ブキャナンJ.Buchananが1877年に刊行した《ローンテニスとバドミントン》のなかで、ブーナでのゲームのルールをつくったひとりであるハートJ.H.E.Hartが紹介したバドミントンは羽子板様のラケットで砂時計型のインドアコートを用いる遊びであった。 1878年にはマーシャルJ.Marshallの同じ題名の著書に、屋外でのバドミントン用シャトルの重量が1.5〜2オンス(42.5〜56.7g、現在は1/5オンス:5.67g以下)であること、得点法は<ラケッツ>(ファイブズとスカッシュの中間のようなゲーム)をまねて1ゲームが15ポイントで 13,14のタイポイントでセッティングを行うことが紹介されている。 |
●国際的な普及 |
1893年に誕生したバドミントン協会には、イングランドだけでなくアイルランドやスコットランドのクラブも その設立メンバーに加わっていたが、1899年にはアイルランド・ユニオンが、 1911年にはスコットランド・ユニオンがそれぞれ独立して新たに加盟し、1902年にはアイルランド・オープン選手権、1907年にはスコットランド・オープン選手権を開催している。 バドミントンの普及の波は、1920年代までは主としてグレート・ブリテンとアイルランドに、ついで当時の大英帝国連邦諸国と近隣のヨーロッパ諸国へおよんだにすぎない。協会はやがて、その構成単位をクラブから各カントリー協会へ、さらには各国協会へと発展させていく。 こうして1934年バドミントン協会は、各国の国内協会を単位とする<国際バドミントン連盟=IBF>を設立させて仕事の一部を委譲し、みずからは<イングランド・バドミントン協会 <The Badminton Assosiation of England=EBA>を呼称することになる。 国際バドミントン連盟設立のメンバーは、カナダ、デンマーク、イングランド、フランス、アイルランド、オランダ、ニュージーランド、スコットランド、ウェールズの9か国である。設立総裁はジョージ・トマス卿で、彼は21年間在職し、以後総裁は2年で変わるのが慣例となっている。 |
●オリンピックの公式行事に |
1985年、東ベルリンで開催された国際オリンピック委員会総会は、国際バドミントン連盟20年来の夢であったオリンピック大会の公式競技として採用すること(1992年)、あわせて1988年の第24回大会(ソウル)ではエキジビジョン競技(デモンストレーション競技に準ずる) とすることを決定した。 世界規模で普及している個人競技としてオリンピックへの参加決定は、遅きにしっした感があるが、 第20回大会(1972年・ミュンヘン)ではじめてデモンストレーション競技に採用されながら、その後も中国のバドミントン界への復帰にからんで、世界バドミントン連盟が独立するなど 世界機構がふたつに分裂したこともあって、必ずしも機運が熟していたとはいえなかった。 これからは、プロ化の進んだ状態をはじめ、競技形態、競技期間、規模、選抜方式などいくつかの問題を解決していかなければならないだろう。 |
参考文献: [最新]スポーツ大事典 (株)大修館書店 昭和62年6月1日初版発行 994頁/997〜998頁 |
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